さよなら皆さん
大変お世話になりました
【ぽけっと前所長 横尾正人】
以下、ぽけっと通信 第46号 2020年4月1日 発行分より転載
今まで、自分の事は書くつもりもなく、地域で頑張っている関係機関の職員さんや、障害当事者さんやご家族に原稿依頼をして、地域の貴重な情報として「ぽけっと通信」を発行してまいりました。
今回最後、区切りをつけるためにも、自分の事を書いてみても良いかなと思い、恥ずかしながら昔を思い出して書いてみましたので、読んでいただければ幸いでございます。
私は、昭和26年に岩手県の鉱山の町で生まれました(来年古希を迎えます)。山ひとつが従業員の社宅(長屋)で埋めつくされ、そこには今でいうスーパーマーケットから診療所、ふろ場(温泉)、洗濯場、体育館(映画館)、グランド、小学校まであり、まさに完結されたひとつの地域社会でした。
父親が労働組合の委員長をやっており、我が家には夜な夜な人が訪れ、母親は客人に振舞う「どぶろく」作りが日課でした。
時は巨人・大鵬・卵焼きの時代。多くの少年たちは王、長嶋に憧れプロ野球選手になることが夢でした。が、小学生の頃、大人になり就きたい仕事が「灯台守」でした。今思えば、私は変わった少年だったのでしょうか…。 人知れずひっそりと地味に人の役に立ちたいと思っておりました。
どうすれば「灯台守」なれるかを海上保安庁に手紙を出したところ、丁寧なお返事をいただきました。その内容は、視力が弱い人は難しいと書かれており、小学校1年からメガネをかけていたこともあり、幼心に夢を断念した事が思い出されます。
高校時代は盛岡市で下宿生活。大学進学のため東京に出てきました。機械工学科の学生でしたが、ワンダーフォーゲル部に所属、山歩きに精を出しておりました。
徹夜で読んだ、登山家&冒険家・植村直己さんの著書「青春を山にかけて」は私の一生のバイブルとなりました。
日本人で初めてエベレストに登ったのが植村さんという事もあり、なんとか自分もこの目でエベレストを見てみたいという思いが年々つのり、インド・カルカッタ経由でネパール・カトマンズまで行き、ルクラからエベレスト街道をトレッキングして、遠くからエベレストを拝んで参りました。
気が付けば卒業も近づき、電気関係の会社に就職をしたものの、どうしてもなじめず、8カ月で退職しました。
その後また大学に戻り、色々アルバイトをしながら2年かけて小学校と幼稚園の教員免許を取得するも、教員採用試験に落ちまくり、人生最大の悲惨な貧しい生活が数年続きました。
落ちこぼれのこんな自分でも、今、生きている証が欲しいと、新宿南口から甲州街道をテクテク歩きはじめ、チ、時々宿泊しながら、日本横断400㎞を13日間かけて糸魚川の海岸まで歩き通したこともありました。
何もかもうまくいかない日々でしたが、ある日、某大学の先生から、「一緒に海外に行かないか」と話をもらい即決! 工事現場で金を貯め、二人で2年続けて東南アジア、ネパールと長期の放浪の旅に出かけました。
1年目はボルネオ島の熱帯雨林の中にある、東南アジア最高峰のキナバル山に登頂。またオランウータンの保護施設の見学や、旧日本兵の慰霊塔の前で、手持ちの蚊取り線香を焚いて冥福をお祈りしました。
また、ボルネオ・サバ州には、サンダカンという街があり、そこは山崎朋子著の「サンダカン八番娼館」に書かれている「からゆきさん」が19世紀後半に娼婦として生きていた街でもありました。
「からゆきさん」として海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだったと聞きます。
私は、ボルネオに行ったら、ぜひサンダカンに行き、もし「からゆきさん」のお墓があれば、手を合わせてきたいと思っておりました。
マレーシア サバ州の州都コタキナバルからサンダカンまで乗り合いジープで約8時間、くたくたになってサンダカンまで来て、色々と歩き回ったが、私の英語力では墓を探すことが出来ませんでした。
小高い丘から街並みを見ながら、遠く暑い異国の地で彼女らはどんな思いで生活をしていたのだろうと思うと、自然に涙が出てきたのを思い出します。
2年目はネパール第2の都市・ポカラから出発し、ヒマラヤの麓を寝袋を背負い、一泊50円の安宿に泊まり、マナスルやダウラギリⅠ峰の素晴らしい山々を眺めながら旅を続けました。
帰りに寄ったシンガポールでは屋台のご夫婦と仲良くなり、自宅に泊めてもらったりと、当時は先の見えない苦しい生活でしたが、今となれば20代の時にこのような貴重な体験をさせてもらった事にとても感謝しております。
転機は28歳の秋でした。東京、調布の居酒屋で教育委員会の人と出会い、調布市立の大町小学校(平成11年閉校)に「養護学級」というのがあり、そこで臨時の教員を募集しているとの事でした。
どんな仕事かもよく分かりませんでしたが、すぐに申し込みをして、出勤するとそこは最重度の寝たきりの子供たち5人が所属している学級でした。
仕事内容は車いすでの散歩や機能訓練、食事の介助やおむつ交換等でした。初めての体験で慣れるまではヒヤヒヤであったが、子供たちとの生活は最高に楽しく、充実した半年でした。
半年間の臨時採用だったので、あっといいう間に過ぎようとした頃、先生が次の職場を紹介してくれました。
そこは当時としては画期的な障害児も受け入れている私立の幼稚園でした。園児130人のうち、障害のある子供が3人いて、私はそこの担任をしました。今から40年くらい前の事なので、幼稚園での男性の教員はあまり存在せず、大変珍しがられました。
幼稚園の先生の中に、弟さんが横浜の白根学園に入所している方がいて、そこの運動会を見に行こうと誘われました。
障害があっても一生懸命競技する人、それをサポートする職員さん・・・その光景は衝撃的で、こんな世界もあるんだと感激して帰宅しました。
すぐに施設を訪問し、当時の故・三木芳園長さんに「ぜひここで働きたい!」とお願いし、昭和57年4月に白根学園に入職をいたしました。
白根学園で8年が過ぎ、園長からヨーロッパの施設を見てくるように言われ、社協のツアーで2週間の海外研修に参加しました。神奈川県内の施設から職員が参加する中、たまたま一緒の部屋で、夜な夜な酒を飲みながら語り合ったのが、現よるべ会理事長の星野泰啓さんでした。
これがご縁で、平成5年に「よるべ会」に入職をし、平成6年から、グループホームと職場実習の担当となり、平成14年の「ぽけっと」立ち上げの時期から、相談業務に携わらせていただきました。
平成16年に地域で何か面白いものをやろうと「ワクワク・のりのりコンサート」を始めました。それが今では地域に定着し協賛団体が26団体に増えております。
平成23年3月11日に起きた東日本大震災では、ふるさと東北が大きな被害を受けました。4月23日に寝袋と食料を背負い、新宿から高速バスに乗り、仙台にある「障害者総合支援本部・みやぎ支援センター」に向かいました。障害者の安否確認とニーズの把握をするためです。現地8日間の緊張感は今までにない体験でした。この貴重な経験は一生忘れることが出来ないと思っております。復興はまだまだ、今だ4万人超が避難生活をしています。
子どもの頃の夢が「灯台守」という話は前に書かせてもらいましたが、人のために何か役に立つ仕事がしたいという少年の夢は、最終的には障害のある方々の支援という形になり終結しました。
改めて、今までの生活を振り返ってみると、挫折から始まり、そして素晴らしい人との出会いがあり、沢山の人に支えられて生きてきた「人生」だと痛感しております。
昨年、父親が亡くなった年齢と同じ歳になりました。明日どんな日が来るのか、先の事は誰にも分からない・・・だからこそ、今を感謝しながら、今後の人生を歩んでいきたいと思っている所です。長い間、ありがとうございました。 (感謝)